『千と千尋の神隠し』で両親が食べていたあのプルプルは、料理の名前が決まっていません。作中でも公式の資料でも、名前で呼ばれた場面はないからです。
手がかりは2つあります。原画を担当した人の投稿と、展覧会の図録に残った書き込みです。ただし、この2つは同じものを指していません。
ネット上でよく見かけるのは「シーラカンスの胃袋」と「台湾のバーワン」の2つ。前者は言った本人が同じ日のうちに取り下げ、後者はスタジオジブリが否定しています。
何がどこまで裏づけのある話なのかを、順に整理します。
両親が食べていたのは何という料理なのか
名前で呼ばれる場面が、そもそもありません。
冒頭で千尋の一家が迷い込むのは、誰もいない屋台街です。父親は「うまそうな匂いがする」と言って湯気の立つ店先に座り込み、母親も並んで食べ始めます。台の上には名前の分からない鳥のような料理をはじめ、正体の知れないものが山盛り。その中で父親が箸でつかむのが、黄色っぽい半透明の皮に包まれた、あのプルプルした一品です。
父も母も、この料理を名前では呼びません。スタジオジブリの作品紹介のページにも料理の説明はなく、公式が「正体は◯◯です」と答えたこともありません。むしろ逆で、2016年に取材を受けた広報は、特定の料理ではないと答えています。
手がかりになるのは、制作の現場に近い側から出た2つの言い方だけ。どちらも料理名ではなく、見た目や感触についての説明です。
「シーラカンスの胃袋」は誰が言ったことなのか
『思い出のマーニー』などを監督した米林宏昌の投稿です。
米林は1996年にスタジオジブリに入り、『千と千尋の神隠し』では原画を担当しました。2020年9月19日、自分が描いた場面についてXにこう書いています。
お父さんが食べてるブヨブヨした食べ物はシーラカンスの胃袋と絵コンテに書いてありました
この投稿が広まり、19年ごしに謎が解けたという受け取られ方をしました。原画を担当した人が絵コンテの記述として挙げたのですから、信じた人が多かったのも分かります。
ところが本人が、その日の夕方にこう続けています。
確たる証拠もないしただの僕の記憶でしかないですよー
「シーラカンスの胃袋という説も…?!」くらいに考えてもらったほうがロマンがあっていい、とも書いています。朝の投稿から半日もたたないうちの訂正でした。
出版されている絵コンテ全集に、この記述はありません。僕は、次の節で触れるレイアウトの書き込みと記憶が混ざったのではないかと見ています。
「制作者が明かした正体」として紹介されがちですが、言った本人が記憶だと認めている以上、確定した設定としては扱えません。
制作の資料には何と書かれているのか
やわらかい皮で、汁気の多い具を包んだもの。それが図録に残る説明です。
スタジオジブリ・レイアウト展は、作品の画面を作るもとになったレイアウトを約1,300点集めた展覧会でした。その図録に収められたこの場面のレイアウトには、料理についての書き込みが残っています。
中に、汁気たっぷりの具がつまっている。外の皮はやわらかくまるでトロトロの子羊の胃袋のよう
「胃袋のよう」の前には「外の皮はやわらかく」が付いています。たとえているのは皮の感触で、料理の中身ではありません。中身のほうは「汁気たっぷりの具」と、はっきり別に書かれています。
ネット上で「胃袋だった」と紹介されるのは、この一行の後半だけを抜いたものです。書き込み全体が描いているのは、皮で具を包んだ料理。もつ煮のような内臓そのものの料理ではありません。
米林の記憶にある「シーラカンスの胃袋」と並べると、重なるのは言葉だけだと分かります。片方は料理の正体を胃袋だと言い、もう片方は皮の感触を胃袋にたとえている。指しているものが違います。
制作の資料から言えるのは、皮がやわらかく、中に汁気の多い具が入ったものとして描かれた、というところまでです。
台湾料理のバーワンではないのか
見た目はよく似ています。ただ、スタジオジブリはこの説を認めていません。
バーワン(肉圓)は台湾の料理です。サツマイモやタピオカのでんぷんで作った半透明の皮で、味をつけた豚肉やタケノコを包んで蒸したもの。店によっては蒸したあとに揚げて温め直します。皮のもちもちした質感と、箸を入れたときのたれ具合が、あの場面によく似ています。
この説が広まった背景には、作品の舞台が台湾の九份ではないかという別の噂もありました。舞台が台湾なら料理も台湾のもの、という筋道です。ただし九份説のほうは、スタジオジブリが、宮崎監督は台湾に行ったこともないと説明しています。詳しくは千と千尋の神隠しのモデルは本当に九份?公式の否定と参考にした場所にまとめました。
似ているものを挙げることと、それが元になったと示すことは別です。2016年3月、この説について取材を受けたスタジオジブリの広報の答えは「特定のものではない」。バーワンに限らず、実在の料理をもとにしたとは認めていません。
名前が決まっていないのはなぜか
分からないもののほうが、あの場面に合っているからです。
千尋の両親は、店に誰もいないまま食べ始めます。あとで払えばいいと言い、止める娘の声も聞かずに食べ続け、豚になります。神様の食べ物に手をつけてしまった場面です。両親が豚になった理由そのものは千と千尋の神隠しは結局何を伝えたい話?企画書にある3つのねらいで整理しています。
ここで並んでいるのが、見て分かる料理だったらどうでしょうか。餃子や唐揚げが並ぶ屋台では、ただの食い逃げの場面になります。何を食べているのか観ている側にも分からないからこそ、人が入ってはいけない場所だと伝わります。
この点は、取り下げの投稿で米林自身も触れていました。餅巾着ではなく、何か分からない変なもののほうがいい、という趣旨の言葉です。描いた本人も、正体が分からないままのほうがいいと書いています。
僕は、この料理に名前がつかないのは取材不足でも説明不足でもなく、そう作られたからだと考えています。名前が分かった瞬間に、あの屋台街は現実の街に戻ってしまいます。
まとめ
- 両親が食べていた料理に決まった名前はなく、作中でも公式の資料でも名前では呼ばれていません
- 「シーラカンスの胃袋」は原画を担当した米林宏昌の投稿ですが、本人が同じ日のうちに「確たる証拠もない、ただの記憶」と取り下げています
- スタジオジブリ・レイアウト展の図録には「外の皮はやわらかくまるでトロトロの子羊の胃袋のよう」とあり、胃袋は料理の正体ではなく皮の手ざわりのたとえです
- 台湾のバーワン(肉圓)は見た目がよく似ていますが、スタジオジブリの広報は「特定のものではない」と答えています
- 正体が分からないままなのは、人が入ってはいけない場所だと観る側に伝えるうえで効いています
この場面を含む『千と千尋の神隠し』は、ジブリ作品の期間限定上映で取り上げられることがあります。今どの作品が映画館でかかっているかはジブリは今映画館でやってる?次の上映は10月23日からにまとめました。
参考
- 千と千尋の神隠し 作品紹介(スタジオジブリ) — https://www.ghibli.jp/works/chihiro/
- 米林宏昌 X 2020年9月19日の投稿と、同じ日の訂正 — https://x.com/MaroYonebayashi/status/1307128080725684224
- 『スタジオジブリ・レイアウト展』図録(この場面のレイアウトの書き込み)
- スタジオジブリ・レイアウト展(スタジオジブリ) — https://www.ghibli.jp/event/layout/
- 『千と千尋の神隠し』に出てくる謎の食べ物の正体を直接聞いてみた(ロケットニュース24・2016年。スタジオジブリ広報の回答) — https://rocketnews24.com/2016/03/18/725975/


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