千と千尋の神隠しは結局何を伝えたい話?企画書にある3つのねらい

『千と千尋の神隠し』は、10歳の女の子が、もともと持っていた力を取り戻す話です。宮崎駿監督が公開前に書いた企画書「不思議の町の千尋 ── この映画のねらい」に、そう書かれています。

観たあとで結局どういう話だったのか分からない、という人は少なくありません。意外なのは、監督がこれを「成長物語」だと考えていない点でしょう。千尋が強くなったのではなく、もともとあったのに表に出ていなかった力が現れただけ。そう読むと、あの映画の分かりにくさの多くが片づきます。

企画書には、ほかに2つのねらいも書かれています。言葉についての考えと、日本の昔話とのつながりです。この記事では、その3つを軸にして、名前を奪われる理由、両親が豚になった理由、油屋で働くことの位置づけ、釜爺の「愛だ」が指すものを順に見ます。

何を伝えたい映画なのか

企画書「不思議の町の千尋 ── この映画のねらい」は1999年11月2日付で、宮崎監督の文章集『折り返し点 1997〜2008』(岩波書店・2008年)に収められています。そこに掲げられたねらいは、大きく3つです。

ねらい企画書に書かれていること
生きる力困難な世の中に投げ込まれた少女が、生きる力を取り戻す姿を描く
言葉の力「言葉は意志であり、自分であり、力」。名前を奪うのは相手を支配する方法
日本のファンタジー日本の昔話の直系の子孫として、日本を舞台にしたファンタジーを作る

企画書はこの映画を「10歳の女の子たちのための作品」と位置づけています。千尋が特別な子どもではないことにも意味があり、主人公の資格は「喰い尽くされない力」にある、と書かれています。強さでも才能でもなく、飲み込まれずに残る力のことです。

宮崎監督はのちに、『ロマンアルバム 千と千尋の神隠し』(徳間書店)でこう語っています。「大丈夫、あなたはちゃんとやっていける」。それを本気で伝えたくて作った映画だ、と。ねらいを一文にすると、そういう映画です。

なぜ名前を奪われるのか

湯婆婆は契約のとき、千尋が契約書に書いた「荻野千尋」から3文字を奪い、「千」にします。ハクも本当の名前を忘れていました。

企画書にある「言葉は意志であり、自分であり、力」という一文が、この場面の答えです。名前は自分そのものなので、奪われれば自分が誰なのか分からなくなります。湯婆婆が名前を取り上げるのは、相手を完全に支配するためです。

ハクは千尋に、本当の名前を忘れると元の世界へ帰れなくなる、と警告します。実際にハクは自分の名を失ったまま湯婆婆に使われ続けていました。ハクが返してくれた元の服のポケットから、クラスメートの寄せ書きカードが出てくる場面。そこに書かれた「ちひろ」で自分の名前を思い出すのが、支配から抜け出す第一歩です。

終盤で千尋がハクの本名「ニギハヤミコハクヌシ」を思い出すと、ハクの体から鱗が剥がれ落ち、湯婆婆との契約から解き放たれます。名前を取り戻すことが解放になる。この作品では、それが一貫した仕組みです。

なぜ両親は豚になったのか

作中に、はっきりした答えがあります。湯婆婆が千尋に言い放つ、お客様の食べ物を豚のように食い散らして当然の報いだ、というセリフです。

両親が食べたのは、八百万の神々のために用意された料理でした。しかも店に人はいません。誰にも断らず、代金も払わず、出されたものを食い散らかした。豚の姿は、その行いをそのまま映したものです。

ここで千尋との差がはっきりします。千尋は同じ場に立ちながら、一口も食べませんでした。あとで口にするのはハクが渡した丸薬で、神々の食べ物ではありません。企画書の言い方を借りれば、両親は喰い尽くされる側になり、千尋は喰い尽くされない側に残ったことになります。

この対比があるから、映画の後半が意味を持ちます。豚になった両親を人間に戻すことが、千尋が働く理由そのものです。

千尋は成長したのではないのか

「成長物語」として語られることの多い映画ですが、宮崎監督はその読み方を取っていません。成長物語ではなく、その子たちの中に本来あるものが、ある状況の中で溢れ出てくるのだ、という言い方です。『千と千尋の神隠し 千尋の大冒険』(ふゅーじょんぷろだくと)に載っている発言です。企画書のほうにも、千尋が本人も気づかなかった適応力や忍耐力を湧き出させる、と書かれています。

この違いは小さく見えて、作品の見え方を変えます。成長物語なら、千尋は「弱い子」から「強い子」に変わったことになります。企画書の読み方だと、千尋は最初から力を持っていて、豊かな暮らしの中でそれを使う機会がなかっただけです。

冒頭の千尋は、退屈そうに車の後ろで寝転がり、引っ越しに文句を言う子どもです。ところが両親が豚になったあとは、震えながらも自分で働き口を探しに行きます。何かを身につけたというより、必要になったから出てきた、と見るほうが場面に合っています。

だから最後に元の世界へ戻った千尋は、見た目も持ち物もほとんど元のままです。両親も何が起きたか覚えていません。それでも観客は、この子ならこの先も大丈夫だと分かる。「あなたはちゃんとやっていける」という監督の言葉は、そういう終わり方のことだと僕は考えています。

なぜ千尋は油屋で働くのか

千尋が油屋(湯屋)で働くことになるのは、この世界では仕事を持たない者が湯婆婆に動物にされてしまう、とハクが説明するからです。物語の上ではそれだけの理由ですが、企画書のねらいから見ると、働くこと自体が主題の一部になっています。

千尋がすることは、床を磨き、湯を張り、客を迎えるといった仕事です。魔法も特技も使いません。オクサレ様の体から自転車を引き抜く場面でも、皆で綱を引くという地味な作業をしています。

働くうちに、千尋は油屋の中で立場を得ていきます。リンが味方になり、釜爺が石炭運びを認め、他の従業員も名前で呼ぶようになる。千尋の変化は、この呼ばれ方の変化で示されます。

一方で、油屋は決して良い場所としては描かれません。カオナシが金を出すと従業員は我を忘れ、湯婆婆は金と契約で人を縛っています。

カオナシがなぜ千尋を追いかけたのかは、カオナシの正体は何者?で詳しく整理しました。

釜爺の「愛だ」は何を言った言葉か

終盤、千尋がハクを助けるために銭婆のところへ行くと言い出します。リンが理由を飲み込めずにいると、釜爺がこう言います。

わからんか。愛だ、愛

この一言が、映画の主題を短くまとめた場面としてよく引かれます。契約でも損得でもなく、千尋が自分から選んで動いた。それを説明する言葉が「愛」でした。

企画書のねらいに戻ると、千尋が最後に発揮するのは腕力でも魔法でもなく、他人のために動く力です。名前を取り戻すのも、ハクを助けるためでした。「喰い尽くされない力」の中身は、こういうものだと考えると腑に落ちます。

それでも「わからない」と感じるのはなぜか

企画書に答えがあると分かっても、観ている間になぜ分からなかったのかは別の話です。理由は3つあります。

1つ目は、映画がねらいをセリフで一度も説明しないこと。主題を語る言葉がなく、釜爺の「愛だ」がほぼ唯一の例外です。あとは場面の積み重ねだけで進みます。

2つ目は、説明されない設定が多いことです。ハクの過去、銭婆と湯婆婆の関係、坊の扱い、両親が最後に何も覚えていない理由。どれも観客が自分で埋めるしかありません。

3つ目は、日本の昔話を下敷きにしている点です。神々が湯に入りに来る、名を言い当てると力が働く、異界の食べ物を口にすると戻れなくなる。こうした約束事は、企画書が言う「日本の昔話の直系の子孫」という位置づけそのものですが、知らないと唐突に見えます。

トンネルで振り返ってはいけない理由も、この昔話の系譜に関わる話です。詳しくは千と千尋のラストでなぜ振り返ってはいけない?にまとめました。

まとめ

  • 何を伝えたい映画なのかは、宮崎駿監督が1999年11月2日付で書いた企画書「不思議の町の千尋 ── この映画のねらい」に書かれています
  • ねらいは3つ。生きる力を取り戻すこと、言葉と名前が自分そのものだということ、日本の昔話につながるファンタジーを作ることです
  • 監督はこれを成長物語だと考えていません。その子の中に本来あるものが、ある状況の中で溢れ出てくる話だと語っています
  • 名前を奪われるのは支配されることで、名前を取り戻すことが解放になります。ハクの本名を思い出す場面がその頂点です
  • 分かりにくいのは、主題を説明するセリフがなく、設定の多くが語られないからです。企画書のねらいを知ってから観ると、場面のつながりが見えてきます

千と千尋の神隠しをもう一度スクリーンで観たい人は、ジブリは今映画館でやってる?で上映の予定を確かめてください。

参考

  • 千と千尋の神隠し 作品紹介(スタジオジブリ) — https://www.ghibli.jp/works/chihiro/
  • 宮崎駿『折り返し点 1997〜2008』(岩波書店・2008年)。企画書「不思議の町の千尋 ── この映画のねらい」を収録 — https://www.iwanami.co.jp/book/b264078.html
  • 『千と千尋の神隠し 千尋の大冒険』(ふゅーじょんぷろだくと)
  • 『千と千尋の神隠し』宮崎駿監督が込めた思い(映画.com・2024年1月5日) — https://eiga.com/news/20240105/16/

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