『耳をすませば』の天沢聖司が「ストーカー」と言われるのは、本人の打ち明け話があるからです。雫に気づいてほしくて本をたくさん借り、図書カードに名前を残していたと話します。会ったこともない相手が借りる本を知っていて、そのカードに自分の名前を書いていた。今の感覚で観ると、そこが引っかかります。
ただ、映画の中で聖司が雫の後をつけ回す場面はありません。名前を残したのはわざとでも、聖司はそれを隠さず自分から話しています。しかも、カードの名前を見て相手を探し始めたのは雫も同じでした。
この記事では、聖司が気持ち悪いと言われる場面を一つずつ確かめます。そのうえで、図書カードという仕組みが公開当時から問題にされていた話と、見方を変えると腑に落ちる点を整理します。
聖司が「ストーカー」と言われるのはなぜか
まず、そう言われる理由になっている場面を並べます。
| 場面 | 何が起きたか | 引っかかる点 |
|---|---|---|
| 図書カード | 雫が借りた本のカードに、どれも「天沢聖司」の名前がある | 同じ本ばかり先に読んでいる |
| 学校のベンチ | 雫が置き忘れた本を、知らない男子が読んでいる | 初対面なのに雫の名前を知っている |
| 歌詞へのひとこと | 「コンクリートロードはやめたほうがいいと思うよ」と言って去る | 頼まれてもいないのに、雫のメモを読んでいる |
| 弁当 | 雫が忘れた弁当を、同じ男子が届けに来る | 行く先々に現れる |
| 打ち明け話 | 前々から図書カードで雫を知っていて、気づいてほしくて本を借りていたと話す | 名前はわざと残していた |
| ラスト | 中学3年の聖司が、雫に結婚を申し込む | 気持ちが重い、急すぎる |
こうして並べると、確かに「行く先々に現れて、こちらのことをよく知っている男子」に見えます。特に打ち明け話は、それまでの場面の見え方を変えてしまいます。ベンチでの一言も、偶然ではなかったのかもしれない。そう感じた人が「ストーカー」という言葉を使うのは、無理もありません。
しかも初対面の聖司は、感じがよくありません。歌詞をからかい、弁当箱の大きさまでからかいます。雫も「やな奴!」と怒っていました。好感を持てないうちに「前から知っていた」と言われるので、余計に気味悪く映ります。
図書カードの場面はなぜ引っかかるのか
6つの場面のうち、多くの人が引っかかるのは図書カードです。理由は、あの仕組みが今の図書館には残っていないからだと僕は考えています。
作中の図書館では、本の後ろのカードに、借りた人の名前が順に書き込まれていきます。「ニューアーク方式」と呼ばれる貸し出しのやり方です。本を返したあとも記録がカードに残るので、次に借りた人には、前に誰が読んだかが見えてしまいます。
今は、図書館は誰が何を借りたかを外に漏らさない、という考え方が当たり前です。その目で観ると、聖司は「他人の読書の記録をのぞいていた」ことになります。違和感の出どころはここです。
実は、この点は公開当時から問題にされていました。
- 映画の年代設定は1994年。けれど東京都の公立図書館では、ずっと前からこの方式はほとんど使われていなかった(1967年末の時点で、60館中9館)
- 日本図書館協会は、実際とは違う描き方だとして、スタジオジブリに改善を求めた
- 話し合いはまとまらず、映画はそのまま公開され、テレビでも放送された
- のちにDVDになったとき、説明の字幕が入れられた
雫の父は図書館で働いていて、作中で「わが館もついにバーコード化するんだよ」と話します。この台詞は後から足されたものだと、当時の朝日新聞が報じました。日本図書館協会の委員会の一人は、この台詞を「言い訳」と評しています。
つまり「図書カードで相手を知る」という出会い方は、1995年の時点でもすでに少し古いものでした。気持ち悪さの大きな部分は、聖司の性格より、この仕組みから来ていると僕は考えています。
映画の中で、聖司は実際に何をしていたのか
では、聖司は雫をつけ回していたのでしょうか。場面をもう一度見ると、違う姿が見えてきます。
ベンチの場面は、雫が本を置き忘れたところから始まります。聖司は、そこに置かれていた本を手に取って読んでいました。名前を知っていたのは、図書カードで前から見ていたからです。
弁当を届けに来たのも、後をつけたわけではありません。聖司は地球屋の主人・西司朗の孫です。雫が祖父の店に立ち寄ったあと、聖司が忘れ物の弁当を届けに来ました。雫を地球屋まで連れて行ったのは、電車で見かけた猫のムーンでした。
| 出会い | 聖司が自分から動いたか |
|---|---|
| 図書カード | 動いた(雫に気づいてほしくて本を借りた) |
| ベンチ | 動いていない(雫が本を忘れた) |
| 地球屋と弁当 | 動いていない(雫が祖父の店に来た) |
| 打ち明け話 | 動いた(自分から話した) |
カードの名前は、偶然ではなくわざと残したものでした。それでも聖司は、自分がしてきたことを黙っておかず、本人に打ち明けています。隠れて相手を追い続ける「ストーカー」とは、そこが違います。
名前を追いかけていたのは雫も同じ
見落とされやすいのが、雫の側の行動です。
雫は、借りた本のカードに同じ名前が続くことに気づき、「天沢聖司」がどんな人なのかを想像し始めます。学校の先生に、本を寄付した「天沢」さんのことも尋ねました。孫が同じ学年にいると知って、思わず職員室を飛び出したほどです。
顔も知らない相手の名前を気にして、周りに聞いて回る。会う前から相手を気にしていた点では、雫も聖司と同じです。物語は、二人がお互いの名前をカードの上で先に見つけていた、という作りになっています。
僕は、ここがこの映画の出発点だと考えています。聖司は気づいてもらうためにカードに名前を残し、雫はその名前に気づいて持ち主を探し始めました。雫の視点で観ると、図書カードの話は不気味な話というより、本を通した遠回しな手紙のやり取りに見えてきます。
原作の聖司とはどこが違うのか
原作は、柊あおいの漫画です。映画は脚本と絵コンテを宮崎駿が担当し、近藤喜文が監督しました。聖司の描かれ方には、いくつか違いがあります。
| 比べる点 | 原作の漫画 | 映画 |
|---|---|---|
| 学年 | 中学1年 | 中学3年 |
| 聖司の夢 | 画家 | バイオリン職人 |
| 出会いでからかうもの | 雫が読んでいる本の内容 | 雫が書いた替え歌の歌詞 |
映画の聖司は、中学3年にして進む道を決め、イタリアへ修業に行く少年になりました。ラストで結婚を申し込むのは、宮崎駿の判断です。劇場版のパンフレットの対談で「聖司がただ雫に『好きだ』というだけじゃ弱い」と語られています。
ラストの申し込みを「重い」と感じる人がいるのは、作り手があえて強い言葉を選んだからです。映画の聖司は、原作より大人びて、気持ちをまっすぐ言う人物として描かれています。図書カードの打ち明け話も、その延長にあります。自分がしてきたことを、好きな相手に正直に話す。作り手が描こうとしたのは、そういう少年だったと読めます。
それでも気持ち悪いと感じるのはおかしいのか
おかしくありません。今の感覚で観て引っかかるのは自然です。
誰が何を借りたかが他人に見える仕組みは、今なら利用者の秘密が守られないとして問題になります。名前を知られていた側からすれば、驚くのも当然でしょう。
僕のおすすめは、二つの見方を分けて観ることです。
- 図書カードの仕組みそのものは、今の目で見れば問題がある
- 聖司は、その仕組みを使って名前を残したが、雫を追い回してはおらず、したことを自分から話している
こう分けると、「気持ち悪い」と「いい話」が同じ場面の中で両立している理由が分かります。もう一度観るなら、雫のほうも聖司の名前を追いかけていたことに注目してみてください。二人の出会いが、片方だけの話ではなかったことが見えてきます。
まとめ
- 聖司が「ストーカー」と言われるのは、雫に気づいてほしくて図書カードに名前を残していたと打ち明ける場面があるから
- 引っかかる理由の大きな部分は、貸出の記録が他人に見える図書カードの仕組み。公開当時から図書館の側が問題にしていた
- 聖司は後をつけ回してはいない。ベンチと地球屋での出会いは偶然
- 名前に気づいて持ち主を探したのは雫も同じで、二人とも会う前から相手に引かれていた
二人がその後どうなったのかは耳をすませばの雫と聖司はその後結婚した?で、聖司の声を演じた高橋一生の話は耳をすませばの天沢聖司の声は14歳の高橋一生で整理しています。映画館でもう一度観たい人は、耳をすませば・借りぐらしのアリエッティのIMAXはいつまで?どこで?で上映の日程をまとめています。
参考
- 耳をすませば — Wikipedia — https://ja.wikipedia.org/wiki/耳をすませば
- 耳をすませば(スタジオジブリ) — https://www.ghibli.jp/works/mimi/


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