ゲド戦記のアレンはなぜ父を刺した?語られない理由と影の意味

『ゲド戦記』の冒頭で、王子アレンが父の王を刺す理由は、作中では説明されません。本人も「分からない」と言うだけで、観る側に答えは渡されないまま話が進みます。

ただ、答えがまったくないわけではありません。映画は、世界の均衡が崩れていること、アレンの心から光が離れてしまったことを、その背景として置いています。

この記事では、冒頭の父親殺しの理由の読み方から、影の意味、あらすじ、結末の意味までを順に整理します。原作の小説との違いも最後に表でまとめます。

アレンはなぜ父を刺したのか

映画の中に、はっきりした理由は出てきません。

アレン自身が「どうしてあんなことをしたのか分からない」と言い、その後も動機は語られないままです。だから観終わっても「結局なんで?」と残ります。ここが、この映画が分かりにくいと言われる大きな理由のひとつです。

映画が置いている背景

理由が語られない一方で、背景は3つ置かれています。

  • 世界の均衡が崩れ、人々も王国も不安の中にいる
  • アレンは真面目な少年で、不安を一人でため込んでいた
  • アレンの心から「光」が離れ、影として別に歩き出した

つまり、悪い性格の少年が父を憎んでやった行為ではなく、心の均衡を失った少年が衝動でやってしまった行為として描かれています。

作り手の説明

父殺しの場面は原作の小説にはなく、映画のために作られました。理由を語らないまま始めたのは、作り手が観る人の想像に任せたからだと読めます。

理由がないことを、どう受け取ればいいのか

僕は、この場面を「理由を探すための場面」ではなく、「理由がないところから始まる場面」として置いた映画だと受け取っています。アレンは、動機のない暴力を振るってしまった人間として、そこから罪と向き合うところまでを歩きます。その道のりが、映画の残りの時間です。

ただし、この読み方に公式の裏づけがあるわけではありません。原作者のル=グウィンは、この場面を厳しく見ています。公式サイトで「映画のアレンの父殺しは、動機がなく、恣意的だ」という趣旨(原文は “unmotivated, arbitrary”)のことを書き、影や分身のせいだという説明も遅く、説得力がないとしています。説明がないことを狙いと受け取るか、脚本の弱さと受け取るかで、評価が分かれる場面です。

「影」とは何か

アレンを追う影は、悪いものが取りついたのではなく、アレン自身の一部です。

映画では、世界の暗さに心を悩ませるうちに、アレンの心の光が離れて影になったとされています。アレンは、その影に追われることになります。

ここで注意したいのは、原作との逆転です。原作の影は、憎しみや傲慢といった心の闇を表すものでした。映画では、影は本来のアレンの光の側です。だから映画のアレンは、影を倒すのではなく、取り戻す必要があります。

後半、アレンがクモに真の名(レバンネン)を明かしてしまい、支配される展開があります。僕はこれを、自分の中心を人に預けてしまった状態を描いた場面だと読んでいます。そこから抜け出せるかどうかが、クライマックスの軸です。

結局どういう話?あらすじを短く整理する

ひとことで言えば、父を刺して逃げた少年が、人に救われ、自分の罪と向き合うために国へ帰る話です。

世界の均衡が崩れ始めたアースシーで、エンラッド国の王子アレンは父の王を刺して国を飛び出します。荒れ地で大賢人ハイタカ(ゲド)に助けられ、異変の原因を探す旅に同行。ホート・タウンで少女テルーを救い、テナーの家で再会します。

テルーは顔にやけどの痕があり、親に捨てられた過去を持つ少女です。命を大切にしないアレンを嫌いますが、テルーの歌をきっかけに、アレンは父を刺したことを打ち明けます。

やがて、死を恐れて生と死を分ける扉を開いた魔法使いクモが動き、アレンは館へ連れて行かれます。結末は、あとの節で見ます。

結末は何を意味する?テルーが竜になる場面

結末を短くまとめると、次のとおりです。

  1. アレンはテルーに励まされ、恐れていた「生きること」に向き合う
  2. 魔法の剣を抜き、クモの支配から抜け出す
  3. テルーが光に包まれて竜の姿になり、クモを焼き払う
  4. 世界の均衡が戻り、アレンは罪を償うために国へ帰ると決める

テルーは、死ぬと分かっているから命は大切なのだ、アレンが怖がっているのは死ぬことではなく生きることだ、という趣旨の言葉をアレンにかけます。クモが求めた「死なない命」と正反対の考え方です。クモは死なない命を求め、テルーは死ぬからこそ命は大切だと言う。二人の考えは正反対で、映画はこの対比を軸にしています。

宮崎吾朗監督は、公式サイトの監督日誌で、この映画に「いま、まっとうに生きるとはどういうことか」というテーマを掲げたと書いています。父を刺した少年が、命の重さを知り、責任を引き受けて帰る。

テルーが竜になる理由は、映画の中でははっきり語られません。説明の代わりに描かれるのは、アレンが自分の足で立ち直る姿です。僕は、竜の場面を「なぜ」で割り切らせず、命の重さを絵で見せる場面として置いたのだと受け取っています。ただし、これも公式の説明ではなく、僕の読み方です。

アレンは国へ帰りますが、その先で何が待っているのかは描かれていません。父は生きているのか、罪はどう裁かれるのかは、観る側に委ねられています。ここが「結局どうなったの?」と感じる、もうひとつのモヤモヤの元です。

原作とどう違う?

映画のもとは、ル=グウィンの小説『ゲド戦記』のうち、主に第3巻『さいはての島へ』です。ただし、話の骨組みはかなり違います。

項目原作の小説映画
父殺しない冒頭で王を刺す(映画のために作られた場面)
アレンの立場王子として学院を訪れ、ゲドの旅に同行する父を刺して逃げ、ゲドに助けられる
影憎しみや傲慢といった心の闇アレンから離れた心の光
テルー幼い子どもアレンと同年代に見える少女に変更
旅ゲドとアレンが島々をめぐり、死者の国まで行くホート・タウンやテナーの家、クモの館が中心
ゲドの結末扉を閉じる代わりに、魔法の力をすべて失う力を失う描写はない
アレンの結末のちに全土を治める王として即位する罪を償うために国へ帰ると決める

一番大きな違いは、原作のアレンが罪を抱えた少年ではないことです。原作は、魔法の力が衰える謎を追う冒険で、アレンは若い相棒です。映画は、その相棒の側を主役に置き、罪と再生の話に組み替えました。

原作を読んだ人が違和感を持つのは、この組み替えのためです。

まとめ

  • 父を刺した理由は、映画の中で説明されない。本人にも分からない衝動として描かれ、背景に世界の均衡の崩れと、心の光が離れたことがある
  • 影は悪いものではなく、アレンの一部。取り戻すことが再生につながる
  • 結末は、アレンが罪を償うために国へ帰ると決めるところまで。その先は描かれていない
  • 父殺しは原作にはなく、映画のための場面。影の意味やテルーの年齢など、原作とは大きく違う

映画が「ひどい」と言われる理由や、原作者の反応はゲド戦記はなぜひどいと言われる?原作者の言葉と腑に落ちる見方で整理しています。

参考

  • ゲド戦記 作品ページ — スタジオジブリ — https://www.ghibli.jp/works/ged/
  • 映画『ゲド戦記』監督日誌「前口上 父は反対だった」(2005年12月13日) — スタジオジブリ — https://www.ghibli.jp/ged_02/10maekoujyou/000112.html
  • Tales of Earthsea or Gedo Senki(原作者ル=グウィンの公式サイト) — https://www.ursulakleguin.com/adaptation-tales-of-earthsea
  • ゲド戦記 (映画) — Wikipedia — https://ja.wikipedia.org/wiki/ゲド戦記_(映画)
  • さいはての島へ — Wikipedia — https://ja.wikipedia.org/wiki/さいはての島へ

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