もののけ姫でモロが言う「やれやれ、あの女のために残しておいた最後の力なのに」は、娘のサンを助けるときの言葉です。エボシを倒すために取っておいた力を、サンのために使ってしまったのです。「あの女」はエボシ御前のこと。モロはエボシに撃たれた傷で死にかけていて、最期の一撃をエボシにぶつけるつもりで命をつないでいました。
ところが、タタリ神になりかけた乙事主(おっことぬし)に、サンが飲み込まれます。モロはすぐに起き上がり、取っておいた力でサンを引きずり出しました。「やれやれ」は、その計画が崩れたことへの苦笑いのように聞こえます。
この記事では、このセリフが出てくる場面、「あの女」と「最後の力」の中身、首だけになってエボシの腕を食いちぎった結末とのつながり、宮崎駿監督がモロをどんな存在として描いたかを整理します。
「最後の力なのに」はどの場面のセリフか
このセリフが出るのは、物語の終盤、シシ神の池のほとりの場面です。
人間との戦いで、猪の一族は全滅に近い打撃を受けました。生き残った乙事主は、体を傷だらけにされ、タタリ神に変わり始めます。サンは乙事主を止めようとしますが、その体から出る黒い呪いに飲み込まれてしまいました。
モロはこのとき、池のほとりに倒れていました。駆けつけたアシタカが「モロっ、死んだのか」と声をかけるほど、動かなくなっていました。そのモロが、首をもたげて言います。
やれやれ、あの女のために残しておいた最後の力なのに
そして乙事主に向かっていき、「わたしの娘を返せ」と、サンを呪いの中から引きずり出しました。サンをアシタカに託すと、「アシタカ!お前にサンが救えるか」と問いかけ、今度こそ力尽きて倒れます。
「あの女」とは誰のことか
「あの女」は、タタラ場を率いるエボシ御前です。
モロの体には、エボシに撃たれた石火矢の弾が入っていました。モロ自身が、猪たちにこう語っています。
わたしの体にも人間の毒つぶてが入っている
モロは、この傷で自分がもう長くないと分かっていました。それでも、同じ傷でタタリ神になったナゴの守のように暴れたりはしません。「わたしはすでに十分に生きた」と、自分の死を受け入れています。
ただ、エボシのことだけは許していませんでした。物語の中ほど、モロはアシタカに、森の悲鳴に耳をかたむけながら「あの女を待っている」、その頭を「かみくだく瞬間を夢見ながら」と語っています。
「最後の力」とは、この瞬間のために取っておいた力のことです。死を受け入れたあとも、モロはエボシへの一撃だけはあきらめていませんでした。エボシがどんな人物で、なぜ森の神々と争ったのかは、エボシ御前は悪役なのか?で詳しく整理しています。
モロはなぜ最後の力をサンに使ったのか
答えは、モロにとってサンが「我が娘」だからです。
サンは人間の子です。森を侵した人間が、モロの牙から逃げるために投げてよこした赤ん坊だったと、モロ自身が語っています。モロはその赤ん坊を、自分の子どもたちと一緒に山犬として育てました。
アシタカに「あの子を解き放て」と迫られたとき、モロはサンのことを「人間にもなれず、山犬にもなりきれぬ、哀れで醜い、かわいい我が娘だ」と言い返しています。人間からも山犬からも外れた子だと分かったうえで、それでも娘として抱えているのです。その娘が呪いに飲まれかけているのを見て、取っておいた力を使わない理由はありませんでした。
「やれやれ」に表れているもの
このセリフで目を引くのは、最初の「やれやれ」です。長いあいだ待ってきた復讐の機会を手放すのに、怒りも嘆きも見せません。少し困ったように笑って、すぐに体を起こします。
僕は、この一言にモロという母親の姿がいちばんよく出ていると考えています。エボシへの恨みは本物です。それでも、娘が危ないとなれば、迷う時間すら取らない。「やれやれ」は、迷った末の決断ではなく、最初から決まっていた答えに対する苦笑いに聞こえます。
サンをアシタカに託した意味
サンを引きずり出したあと、モロはアシタカに「お前にサンが救えるか」と言います。少し前にモロは、サンに「お前にはあの若者と生きる道もあるのだが」とも話していました。
自分はここで死に、森も滅びかけている。モロはそう分かったうえで、サンの生きる道はアシタカと共にしかないと考えたのだと、僕は読んでいます。最後の力でサンを救ったモロは、救ったあとの娘の行き先まで、アシタカに預けて倒れました。
アシタカがサンに伝えた「生きろ」の意味は、もののけ姫「生きろ」の意味は?でまとめています。
首だけでエボシの腕を食いちぎったのはなぜか
作中で理由は説明されていません。エボシへの執念だけで首が動いた、と読むのが自然です。
エボシがシシ神の首を撃ち落とした直後、倒れていたモロの首が動き出しました。体はすでにシシ神の体からあふれた液に飲まれていましたが、首だけがエボシに飛びかかり、右腕を食いちぎります。エボシは「モロめ!首だけで動きよった」と叫びました。
「最後の力なのに」とこぼしたモロは、力をサンに渡したあとも、エボシを忘れてはいなかったのです。使い切ったはずの力の、さらに先に残っていたもの。それが恨みだったのか、森を守る山犬の意地だったのかは、観る人に任されています。
アシタカは「もう罰は受けている」と言った
腕を失ったエボシを助けながら、アシタカはこう言います。
モロが仇を討った。もう罰は受けている。手を貸せ
アシタカは、森を壊したエボシを責め続けることも、モロの行いを責めることもしません。モロの一撃で、エボシの罪の決着はついている。だから今は助けよう、という言葉です。
エボシの罰はモロの一撃で済んだ、とアシタカが言ったことで、人間と森の争いはここで一つ区切られた、と読めます。この結末全体の意味は、もののけ姫のラストの意味で整理しています。
宮崎監督はモロをどんな存在として描いたのか
モロは、2本の尾を持つ白い大きな山犬で、300歳とされています。声を演じたのは美輪明宏さんです。
美輪さんは、声を吹き込む前に宮崎駿監督から「モロはいわば観世音菩薩なんです」と言われたと、『文藝春秋』2022年1月号のインタビューで明かしています。観世音菩薩は、苦しむ人を救う慈悲の仏です。森を侵す人間には牙をむく一方で、人間の子を拾って娘として育てたモロの姿は、この言葉と重なります。
同じインタビューでは、もう一つの話も語られています。言葉を失っていく乙事主にモロが語りかける場面について、美輪さんがモロの気持ちを宮崎監督に尋ねたところ、「遠い昔モロと乙事主は”いい仲”だったんです」という答えが返ってきたそうです。
つまり、最後の力でサンを引きずり出したとき、モロが相手にしていたのは、かつての恋の相手でもありました。乙事主がタタリ神になっていくのを見届け、娘を取り戻し、恨んだ相手の腕を食いちぎって死ぬ。娘を守る母としての思い、かつての恋の相手を見送る思い、仇への恨み。モロの最期の数分には、この3つが続けて出てきます。
まとめ
- 「やれやれ、あの女のために残しておいた最後の力なのに」は、タタリ神になりかけた乙事主からサンを救う直前のモロの言葉
- 「あの女」はエボシ御前。モロは石火矢の傷で死を受け入れつつ、エボシへの一撃のためだけに力を取っておいた
- その力を、すぐに娘のサンに使った。「やれやれ」は、最初から決まっていた答えへの苦笑いと読める
- それでもモロは首だけになってエボシの右腕を食いちぎり、アシタカは「もう罰は受けている」とエボシを助けた
- 宮崎監督は美輪明宏さんに、モロを「観世音菩薩」、乙事主とは「いい仲」だったと伝えていた
もののけ姫の世界を再現した「もののけの里」に入れるチケットは、ジブリパークのチケット7種類の違いで比べています。
参考
- もののけ姫 作品紹介(スタジオジブリ) — https://www.ghibli.jp/works/mononoke/
- もののけ姫 — Wikipedia(モロの君の項。美輪明宏のインタビューの紹介) — https://ja.wikipedia.org/wiki/もののけ姫
- 美輪明宏インタビュー「宮崎駿・いい意味の社会主義」(文藝春秋『文藝春秋』2022年1月号)


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