火垂るの墓の清太はなぜおばさんの家を出た?貯金があっても飢えた理由

『火垂るの墓』の清太は、おばさんに追い出されたのではありません。自分から「よそへ移ります」と言って、妹の節子を連れて家を出ました。母の貯金が7000円あったのに飢えたのは、米が配給制で、隣組の外にいてはお金があっても買えなかったからです。

観終わったあと、「なぜ我慢できなかったのか」「お金があったのになぜ」と引っかかる人は多いはずです。清太を責める声と、おばさんを責める声に分かれがちな場面です。

この記事では、清太が家を出るまでに何があったのか、7000円がなぜ役に立たなかったのかを、当時の配給の仕組みから整理します。あわせて、高畑勲監督が清太をどう見ていたのか、原作者の野坂昭如の実体験とどう違うのかも見ます。

清太はなぜおばさんの家を出て行ったのか

直接「出て行け」と言われた場面はありません。おばさんとの毎日の小さなやり取りに、清太が耐えられなくなったのです。

清太と節子は、空襲で母を亡くしたあと、西宮の遠い親戚のおばさんの家に身を寄せます。焼け出されたら置いてもらう、という約束が母との間にあったためです。はじめのうち、おばさんは二人を受け入れていました。

様子が変わるのは、食べ物が足りなくなってからです。おばさんは母の形見の着物を米に替え、節子は泣いて嫌がります。やがて食卓で、おばさんは自分の娘や下宿人と二人の分を分けるようになりました。

お国のために働いてる人らの弁当と、一日中ぶらぶらしてるあんたらと何で同じや思うの。

清太は学校にも、勤労動員(工場などで働かされること)にも行っていません。空襲警報が鳴ると防空壕に逃げ、それ以外は節子と過ごしています。おばさんから見れば、働かない居候です。「そんなに命惜しいねんやったら、横穴に住んどったらええのに」という言葉も出ます。

清太はとうとう「僕等よそへ移ります」と告げます。おばさんは「気ぃつけてな」と送り出すだけで、止めませんでした。追い出してはいないが、引き止めもしない。二人が家を出た場面は、そういう形で描かれています。

母の貯金7000円があったのに、なぜ飢えたのか

お金で米が買えない仕組みだったからです。

清太は母が銀行に7000円を預けていたことを知り、これだけあれば何とかなると喜びます。当時の7000円は大きな額でした。それでも二人は、防空壕の横穴で暮らすうちに、少しずつ弱っていきます。

戦時中の米は、国が量を決めて配る「配給」でした。家ごとに「米穀通帳」が1通配られ、1日にどれだけ買えるかが書き込まれています。配給日にこの通帳を持っていくと、決まった量だけ買える。配る場所は、やがて町内会や隣組ごとに決められていきました。

つまり米を手に入れるには、どこかの家の一員として、地域の配給の輪の中にいる必要がありました。おばさんの家を出て横穴に移った時点で、清太たちはその輪から外れています。

作中で清太が店に行くと、店主は「売ろうにも、品物がのうて商売上がったりや」とこぼします。お金はあっても、店に売る物がない。残るのは配給の外で売られる闇の米ですが、その値段は跳ね上がっていきました。作中の時期より少しあとですが、終戦直後の1945年10月には、公に決められた値段の49倍になっています。

お金はあっても、それを食べ物に変える道がほとんどなかったのです。

清太が貯金を下ろして食べ物を買いに走るのは、物語の終わり近く、節子が弱りきってからです。医者に栄養をつけるしかないと言われ、銀行へ行きました。日本が戦争に負けたことを知るのも、このときです。お金が役に立つ場面が来たときには、もう間に合いませんでした。

清太は戻ることもできたのか

できました。作中には、そう勧める大人も出てきます。

節子が弱っていくなか、清太が食べ物を分けてもらいに行った農家の男性は、こう声をかけます。

今は何でもかんでも配給やし、隣組に入っとらんと暮らしてはいけん

男性は続けて、よく謝っておばさんの家に置いてもらえ、と勧めました。頭を下げて戻れという助言です。清太はこの言葉に従いません。畑の作物を盗むようになり、つかまって殴られる場面もあります。

僕は、清太は損得より気持ちを取ったのだと読んでいます。海軍の軍人の息子として、よその家で小さくなって暮らすのはつらかったのかもしれません。

ただし、映画は清太の気持ちを言葉で説明しません。清太を「わがまま」と見る人も、「14歳にそこまで求めるのは酷だ」と見る人もいます。どちらの見方も、作中の描写から成り立ちます。

高畑勲監督は清太をどう見ていたのか

高畑勲監督は、清太が現代の少年のように思えてならない、と書いています。公開当時の劇場パンフレットに寄せた文章です。

まるで現代の少年がタイムスリップして、あの不幸な時代にまぎれこんでしまったように思えてならない。

監督は、清太が家を出た理由もはっきり書いています。自分に完全な屈服とご機嫌とりを求める、泥沼のような人間関係の中に居続けることはできなかった。耐えがたい人間関係から身を引き、自分から食事を別にし、横穴へ去った、というのです。

そのうえで監督は、わずらわしい人間関係を嫌う今の若者や子どもと、清太は似ていないだろうか、と問いかけます。清太は愚かだったから死んだのではない。今の子どもたちと同じ選び方をしたから、あの時代では生き延びられなかった。高畑監督の文章は、そう読めます。

清太を責める声が多いのも、清太が観客に近い少年として置かれているからだと思います。観る側はつい「自分ならどうしたか」を考えてしまいます。

原作と作者の実体験ではどうだったのか

原作は、野坂昭如の短い小説『火垂るの墓』です。1967年に雑誌『オール讀物』に発表され、直木賞を受けました。

原作のおばさんは、映画より性格がきつく、二人につらく当たる人物として描かれています。映画のおばさんも「疫病神」という言葉を口にしますが、ただの意地悪な人としては描かれていません。清太とおばさんのどちらが悪いのか、観る人によって答えが分かれるのはそのためです。

野坂自身も、終戦の前後に妹を亡くしています。ただ、実際には小説のようなひどい扱いは受けておらず、家を出て防空壕で暮らしたこともありません。横穴の暮らしは、小説のために作られた部分です。

野坂は後に、小説の兄ほどに妹をかわいがってやればよかった、自分はあんなにやさしくはなかった、と書いています。清太は、作者がなれなかった「やさしい兄」として書かれた少年でもあります。

まとめ

  • 清太は追い出されたのではなく、おばさんの言葉と食事の差に耐えられず、自分から「よそへ移ります」と家を出ました
  • 母の貯金7000円があっても飢えたのは、米が配給制で、隣組の外では買えなかったからです。店に品物はなく、闇の米の値段は跳ね上がっていきました
  • 農家の男性に「よう謝って」戻るよう勧められても、清太は戻りませんでした。その理由を映画は言葉で説明していません
  • 高畑勲監督は、清太が「現代の少年がタイムスリップして」きたように思えると書いています
  • 原作者の野坂昭如は、実際には家を出ておらず、小説の兄ほど妹にやさしくなかったと振り返っています

高畑監督は『火垂るの墓』の一部で、先に声を録ってから絵を描く方法を試しています。その背景はジブリはなぜ声優を使わない?にまとめました。ジブリ作品を映画館で観たい人は、ジブリは今映画館でやってる?で上映の予定を確かめられます。

参考

  • 火垂るの墓 作品紹介(スタジオジブリ) — https://www.ghibli.jp/works/hotarunohaka/
  • 高畑勲監督の劇場パンフレットの文章(ジブリのせかい) — https://ghibli.jpn.org/report/hotaru-2/
  • お米を買うのに通帳が必要だったの?(アジア歴史資料センター) — https://www.jacar.go.jp/exhibition/glossary/tochikiko-henten/qa/qa13.html
  • 火垂るの墓 — Wikipedia(原作と作者の実体験) — https://ja.wikipedia.org/wiki/火垂るの墓

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