千と千尋の油屋は本当に遊郭?湯屋の描写と宮崎駿監督の言葉

油屋が遊郭だと説明される場面は、『千と千尋の神隠し』の中にありません。作中の油屋は、八百万の神々が体を清めに来る湯屋です。ただし宮崎駿監督は、今の世の中を描くなら風俗産業がふさわしいという趣旨のことを語っています。

つまり「遊郭そのものを描いた」わけではないけれど、「まったくの無関係」でもありません。この中間が、説明されないまま「遊郭説」として一人歩きしてきました。

この記事では、説の出どころ、作中の描写、監督や資料が実際に言っていること、そして反対の読み方までを順に切り分けます。

油屋は作中で何の店として描かれているのか

湯屋です。神々が疲れを落としに来る、巨大な風呂屋として描かれています。

千尋がする仕事も、床を磨き、大きな湯船を洗い、番台から薬湯の札をもらって湯を張るというものです。オクサレさまの体から自転車を引き抜く場面が分かりやすい例で、千尋がしているのは掃除と力仕事です。

湯婆婆が経営し、現場をまとめる父役と兄役が客をさばき、女衆が世話をします。構造としては、大きな温泉旅館に近い形です。

湯婆婆が千尋に渡すのも、体を売る仕事ではなく契約書です。名前を書かせ、働き手として雇う。油屋は、住み込みで働く場所として最初から最後まで描かれます。

映画の中で「ここは遊郭だ」と誰かが言う場面も、そう受け取らせる直接の描写もありません。ここは最初にはっきりさせておきます。

「遊郭説」はどこから出てきたのか

出どころは、作品の外にある監督とプロデューサーの発言です。

宮崎駿は2001年の『プレミア日本版』でこう語っています。今の世界を描くなら風俗産業がふさわしい、日本はすべてそういう社会になっている、という趣旨です。この発言が繰り返し引用され、「油屋=風俗店」という読みの土台になりました。

鈴木敏夫プロデューサーも、キャバクラで働く女の子が人と接するうちに心を開いていく、という話が着想のもとにあったと説明しています。

これらはすべて映画の外側の言葉です。作中の描写ではなく、作り手が何になぞらえて考えていたかの説明にあたります。

「湯女」という言葉は何を指すのか

説がここまで広がったのは、湯屋という舞台に実在の歴史が重なるからです。

江戸時代には「湯女」と呼ばれる女性がいました。辞書の説明では、温泉場や風呂屋で客の世話をした女性で、一部は客を取るようになったとされます。市中の湯屋にいた遊女を指す語としても載っています。

そして『ロマンアルバム 千と千尋の神隠し』(徳間書店、2001年)には、油屋のナメクジの女衆についての説明があります。江戸時代の大湯女に相当する存在だ、というものです。制作側の資料が、湯女という言葉を実際に使っているわけです。

風呂屋と遊女が地続きだった時代が本当にあり、その時代の呼び名が油屋の設定に使われている。ここが「遊郭説」の中でいちばん根拠のある部分です。

ただし、湯女という語が指す範囲は広く、客の世話をする女性全般も含みます。資料が湯女と書いているからといって、油屋を遊郭だと説明したことにはなりません。

油屋の見た目や街並みは何をもとにしているのか

油屋の外見について、宮崎駿は和風なのは表面だけだと言い、その作りを「俗悪」と表現しています(『ロマンアルバム 千と千尋の神隠し』)。上品な日本建築を目指してはいないわけです。

油屋の周りに並ぶ飲食店街にも元があります。映画研究者の叶精二は、この通りが新橋の烏森口や有楽町のガード下の歓楽街をもとに描かれたと書いています。

千尋の両親が食べ散らかしたあの通りは、神々の世界の食堂街であると同時に、今の東京の飲み屋街でもありました。夜になると灯りがつき、大人が集まって騒ぐ場所です。

同じ本には、油屋の内装の参考として広島の遊郭の赤い壁も挙がっています。繁華街と遊郭のどちらか一方ではなく、夜に人が金を落として騒ぐ場所の空気がまとめて持ち込まれている、と読むほうが資料に合います。

「千」と呼ばれるのは源氏名なのか

湯婆婆が千尋から名前を取り上げ、「千」と呼ぶようになる場面を、店で使う別名(源氏名)になぞらえる読み方があります。よく見かける説明ですが、公式にそう書かれた資料は出ていません。

作品の中での名前は、もっと広い意味を持っています。ハクは本当の名前を忘れたせいで湯婆婆から離れられなくなり、名前を思い出した瞬間に自由になります。千尋も、最後は自分の名前を手放さなかったから帰れました。

名前を取られると帰り道を失う、という仕組みが先にあります。その仕組みが、たまたま別名を名乗る商売とも重なって見える、という順番でしょう。

ハクが最後に「振り向かないで」と言った理由は、千と千尋のラストでなぜ振り返ってはいけない?禁止には期限があるで扱っています。

遊郭ではないとする読み方もある

油屋を風俗産業の比喩と読むこと自体に反対する意見も出ています。評論家の岡田斗司夫は、油屋を洋風の作りを和風に見せかけた建物ととらえました。そのうえで、アニメを作る仕事やスタジオジブリそのものの比喩として読んでいます。

作中の描写からも、遊郭として読むには無理のある点がいくつかあります。まず、油屋の客は神々であって人間の男ではありません。遊郭の構造を持ち込むなら、客と働き手の関係が話の中心に来るはずです。映画が描くのは、千尋と湯婆婆、千尋とハク、千尋と釜爺の関係でした。

千尋の仕事も一貫して掃除と接客で、それ以上のものとしては描かれません。カオナシが千に金を差し出す場面はありますが、千はそれを受け取らずに突き返します。

そもそも作中には、遊郭につきものの大門も、格子のはまった部屋も、客が相手を選ぶ場面も出てきません。

湯婆婆が千尋を縛るのも借金ではなく、名前を取り上げた契約です。身を売って返すという形は、物語のどこにも組み込まれていません。

まとめ

  • 映画の中の油屋は、神々が体を清めに来る湯屋です。遊郭だと説明される場面はありません
  • 「遊郭説」の根拠は作品の外にあります。宮崎駿が2001年の『プレミア日本版』で、今の世界を描くなら風俗産業がふさわしいと語ったことが繰り返し引用されてきました
  • 『ロマンアルバム 千と千尋の神隠し』には、ナメクジの女衆が江戸時代の大湯女に相当するという説明があります
  • 油屋の作りを監督は「俗悪」と表現し、周りの飲食店街は新橋や有楽町の歓楽街をもとに描かれています
  • 名前を「千」に変えられることを店の別名になぞらえる読みは、公式の資料にはありません

遊郭を描いたのではなく、遊郭とも地続きだった湯屋という場所の空気を借りた。そう読むのが実際に近いはずです。僕は、この作品が子ども向けの物語でありながら大人が見ると落ち着かないのは、この借り方のせいだと考えています。働くというのは、どこか自分を切り売りすることでもある。千尋が油屋で味わうのは、その最初の一口です。

油屋の建物そのものが何をもとにしているかは、千と千尋の神隠しのモデルは本当に九份?公式の否定と参考にした場所で整理しました。

参考

  • 千と千尋の神隠し 作品紹介(スタジオジブリ) — https://www.ghibli.jp/works/chihiro/
  • 『ロマンアルバム 千と千尋の神隠し』(徳間書店、2001年)。油屋を「俗悪」と表現した宮崎駿の言葉、ナメクジの女衆と大湯女の説明
  • 叶精二『宮崎駿全書』(フィルムアート社、2006年)。油屋周辺の街と内装の元になった場所
  • 「千と千尋」はなぜ「湯女」なのか(町山智浩、2004年3月14日。『プレミア日本版』の宮崎駿インタビューと「湯女」の辞書的定義) — https://tomomachi.hatenadiary.org/entry/20040314
  • 湯女(コトバンク。日本国語大辞典・大辞泉・日本大百科全書の定義) — https://kotobank.jp/word/湯女-145199

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