『風立ちぬ』の堀越二郎の声に庵野秀明さんが選ばれた理由を、宮崎駿監督ははっきり言葉にしています。「今という時代を、一番傷つきながら正直に生きているし、それが声にも出ているから」。2013年6月24日、東京・小金井のスタジオジブリで開かれた完成報告会見でのことです。
うまいから選んだのでも、話題作りで選んだのでもありません。声そのものに、この時代を生きた跡がついている。監督が求めたのはそこでした。
この記事では、庵野さんが二郎の声に決まるまでの経緯、監督の発言の中身、収録で何が起きていたか、そして「棒読みだ」という受け取られ方をどう見るかを整理します。
なぜ庵野秀明が選ばれたのか
完成報告会見に立った宮崎監督は、起用の理由をはっきり言葉にしています。
今という時代を、一番傷つきながら正直に生きているし、それが声にも出ているから
続けて、この声はそうそういない、やっぱり庵野にやってもらって良かった、とも語りました。
堀越二郎は、飛行機を美しいものとして作り続けた技術者です。その飛行機が戦争に使われると分かっていながら、設計をやめない。僕は、この引き裂かれ方を声で出せる人を探していたのだと読んでいます。
会見では、庵野さんの演技について「演じたのでなくそのもの」という言い方もしています。役を作らせたのではなく、その人のまま立たせた。起用の狙いが、この一言に出ています。
二郎は、作中でほとんど声を荒らげません。関東大震災でも、試作機の墜落でも、菜穂子の病が進んでも、口調がさほど変わらないという印象を受けます。感情を外に出す演技を当てれば、この静けさは壊れるでしょう。
どういう経緯で決まったのか
庵野さんはもともと、声ではなく絵で参加するつもりでした。ゼロ戦が飛ぶ場面があるなら描かせてほしい。そう鈴木敏夫プロデューサーに申し入れていたところ、返ってきたのは主演の声の依頼でした。
名前を出したのも鈴木プロデューサーです。キャスティング会議で、宮崎監督と鈴木プロデューサーは二郎を「内気なのではなく、頭が良すぎて口数が少ない男」と見立てます。ところが候補に挙がった人ではその感じが出ない。そこで、素人が演じたほうがまだ感じが出そうだ、と鈴木プロデューサーが庵野さんの名前を挙げたと伝えられています。
見立てのほうが先にあった、という順番に注目したい場面です。頭の回転が速く、そのぶん人にうまく説明しない男。この像が固まっていたから、演技の技術で近づけるより、もともとそういう話し方をする人を連れてくるほうが早い、という結論になりました。
二郎は宮崎監督自身が投影された人物だとよく言われます。だとすれば、監督に近い場所で長く仕事をしてきた庵野さんに読ませるのは、遠回りな自画像の作り方でもあります。
庵野秀明と宮崎駿はどういう関係なのか
二人の縁は、1984年の『風の谷のナウシカ』にさかのぼります。
庵野さんは1983年に大阪芸術大学を離れ、自分の絵を持ってナウシカの制作現場に来ました。宮崎監督は庵野さんを採用し、巨神兵の場面をまるごと任せます。動画から原画へ段階を踏むのが普通の業界で、来たばかりの若手に山場を丸ごと預けた形です。鈴木プロデューサーは当時の様子を「道場やぶり」のようだったと振り返っています。
このときから、二人は師弟と呼ばれる関係になりました。庵野さんはその後、『新世紀エヴァンゲリオン』の監督として知られるようになります。
『風立ちぬ』の声の依頼は、1984年から30年近く続いたそのつながりの上にあります。作画の手伝いを申し出た相手に主役の声を頼めるのも、互いの仕事を長く見てきた間柄だからでしょう。
収録では何が起きていたのか
依頼の順番は、まず鈴木プロデューサーからの電話でした。そのあとオーディションを受け、宮崎監督が直々に「やって」と頼んだ、と伝えられています。
庵野さんは引き受けたときのことをこう振り返っています。寡黙な男でセリフはそんなにないから、と言われて受けたのに、絵コンテを見たらずっとしゃべりっぱなしだった。完全にだまされた、という言い方です。
収録での宮崎監督の指示も残っています。うまくやろうとしなくていい。いい声だからではなく存在感で選んだのだから、それを出さなくてはならない。演技を求めていないことを、現場でもそのまま伝えていたわけです。
鈴木プロデューサーは、庵野さんの声を「役者さんでは演じることのできない存在感」と評しています。映画を設計する監督と飛行機の設計士。作るものは違っても通じるところがある、というのが起用の見立てでした。
二郎以外の声は誰が演じたのか
『風立ちぬ』は2013年7月20日公開、上映時間は126分です。スタジオジブリの作品紹介に名前が載っている声の出演は11名。主な顔ぶれと役の対応は次のとおりです。
| 役 | 声 |
|---|---|
| 堀越二郎 | 庵野秀明 |
| 里見菜穂子 | 瀧本美織 |
| 本庄 | 西島秀俊 |
| 黒川 | 西村雅彦 |
| カストルプ | スティーブン・アルパート |
| カプローニ | 野村萬斎 |
ここに専業の声優は入っていません。カプローニ役の野村萬斎さんは狂言師、カストルプ役のスティーブン・アルパートさんはジブリで海外向けの仕事をしていた人です。
庵野さんの声だけが浮いて聞こえるとすれば、配役の方針からずれているからではありません。全員が同じ方針で選ばれていて、その中で主役が最も極端な位置にいます。
棒読みと言われる演技はどう受け止められたのか
二郎の声には、公開当時から評価が割れました。抑揚が少なく棒読みに聞こえる、という受け取り方が一方にあります。
もう一方に、あの声でなければ二郎にならない、という受け止め方があります。淡々とした読み上げが、飛行機の夢と戦争の現実のあいだで宙に浮いた男の輪郭に合っている、と読む人たちです。
二郎という人物を思い出すと、抑揚の少なさはこの人物に合っています。感情を大きく出さず、飛行機の話になったときだけ言葉が増える。淡々とした読み方は、その性格の延長に置けます。
庵野さん自身は完成報告会見で、マイクの前に立つ人の気持ちが分かった、と語りました。専業の声優の仕事の大変さを身をもって知った、という趣旨の言葉です。
うまい下手の物差しと、その人物に合っているかの物差しは別物です。この声を受け入れられるかどうかで評価が割れるのは、当然の結果だと僕は考えています。
ジブリが専業の声優をあまり使わない方針そのものについては、ジブリはなぜ声優を使わない?で整理しました。
宮崎駿はなぜ自分の映画で泣いたのか
同じ会見で、宮崎監督は完成した『風立ちぬ』を観て涙が出たと明かしています。
自分の作品で涙が出たのは、初めて。監督としては情けない……、みっともないです
理由として挙げたのは、長年の積み重ねと縁、そして運が重なって1本の映画になったことでした。
庵野さんはこれを見て驚いたと語っています。人前で泣く人ではないから、というのがその理由です。
『風立ちぬ』は宮崎監督にとって5年ぶりの長編でした。実在の設計者の名前を借りた人物を主人公にした作品も、宮崎監督ではこれだけです。声に素人を据え、自分に近い人物を描き、完成した映画を観て泣く。監督自身が一番踏み込んだ1本だったと僕は見ています。
まとめ
- 宮崎駿監督は起用の理由を「今という時代を、一番傷つきながら正直に生きているし、それが声にも出ているから」と説明しています(2013年6月24日の完成報告会見)
- 庵野秀明さんはもともと作画で参加するつもりで、監督のほうから主演の声を頼まれました。名前を挙げたのは鈴木敏夫プロデューサーです
- 二人の縁は1984年の『風の谷のナウシカ』。入って間もない若手に巨神兵の場面をまるごと任せたのが始まりです
- 収録で監督は「うまくやろうとしなくていい。存在感で選んだのだから」と指示しました。会見では「演じたのでなくそのもの」と評しています
- 棒読みという受け取り方はありますが、声の出演には専業の声優が1人も入っておらず、俳優・狂言師などで固められています
参考
- 風立ちぬ 作品紹介(スタジオジブリ) — https://www.ghibli.jp/works/kazetachinu/
- 宮崎駿、自作に涙「情けない…」 5年ぶり新作「風立ちぬ」がついに完成(映画.com・2013年6月24日) — https://eiga.com/news/20130624/8/
- 宮崎駿監督自身も泣いた「風立ちぬ」完成 庵野秀明(アニメ!アニメ!・2013年6月24日) — https://animeanime.jp/article/2013/06/24/14547.html
- スタジオジブリ最新作「風立ちぬ」完成披露(AV Watch・2013年5月10日) — https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/598823.html
- 庵野秀明『風の谷のナウシカ』巨神兵のシーン担当(ORICON NEWS) — https://www.oricon.co.jp/news/2474076/full/

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