『かぐや姫の物語』のポスターにある「姫の犯した罪と罰。」というコピーは、高畑勲監督が考えたものではありません。作ったのは鈴木敏夫プロデューサーで、監督本人はのちに「あのコピーは間違っています」と語っています。
つまり、映画を観ながら罪の中身を探しても見つからないのは当然です。監督は企画の段階でその主題を考え、のちにやめました。答えが残っているのは本編ではなく、企画書のほうです。
この記事では、あのコピーの意味として企画書に書かれていた罪と罰の中身、監督がそれを否定した経緯、原作『竹取物語』での扱い、そして映画が代わりに何を描いたのかを順に見ます。
企画書に書かれていた罪とは何か
罪は「地上の思い出で、ある女を苦しめたこと」でした。
高畑監督の企画書には、こんな一節があったと紹介されています。
禁を破って帰還女性の記憶を呼び覚ましたことが発覚し、姫は、地上の思い出によって女を苦しめた罪を問われる。そして罰として、姫は地球におろされることになる
月には、かつて地上へ行き、月に戻ってきた女性がいました。姫はしてはならないとされていたことをして、その女の地上の記憶を呼び覚ましてしまう。思い出した女は苦しみます。それが罪で、罰として地上へ落とされた、という筋道です。
ここを押さえると、コピーの意味は一応通ります。ただし、罪に当たる出来事が起きたのは、姫が地上に来る前。映画が始まった時点で、問われるべき罪はもう過去のものです。
なぜ監督は「間違っています」と言ったのか
主題を途中で捨てたからです。
このコピーを考えたのは鈴木敏夫プロデューサーでした。企画書にあった言葉をそのまま宣伝に使った形なので、出どころとしては間違っていません。ところが監督は鈴木プロデューサーに対し、「最初にそう考えたのは事実です。でも、そのテーマはやめたんですよ」と答えています。
さらに強い言い方も残っています。「あのコピーのおかげで僕は迷惑している」。インタビューでは「あのコピーは間違っています」とも述べていました。
宣伝の言葉は、観る前の期待を作ります。「罪と罰の物語だ」と思って席に着いた人は、その答え合わせをしながら137分を過ごすことになるでしょう。僕は、やめたはずの主題で作品を読まれることへの困りごとだったと読んでいます。
この食い違いこそ、『かぐや姫の物語』が長く語られる理由の一つでしょう。宣伝の言葉と監督の説明が正面から食い違う作品は、そう多くありません。
映画の中に罪と罰は描かれているのか
本編では語られません。
月の使者が迎えに来る場面でも、姫が何をしたのかは説明されずに終わります。列の中心にいる月の王は、仏像のような姿で現れるだけ。ひとことも発しません。観客に示されるのは、姫が月から来た者で、月に帰る決まりだという事実だけでした。
姫自身も、自分の罪を言葉にしません。自分が月の都の者だと打ち明け、誰にも教わっていない歌を思い出しもするのに、何をしてここへ来たのかだけは口にしません。そこにだけ蓋がされています。
だから「何度観ても罪が分からない」という感想は、見落としではありません。描かれていないものは、何度観ても出てきません。
地球に憧れたこと自体が罪で、記憶を消されて落とされたのが罰だ、という読み方も広まっています。筋は通りますが、本編にそれを罪と呼ぶ場面はありません。企画書の説明ともずれています。
地上に降りることは本当に罰だったのか
映画を観るかぎり、罰にはなっていません。ここが、コピーと映画がいちばん食い違うところです。
月から見れば、地上は穢れた場所です。迎えの天人も、月に戻れば心は乱れず、この地の穢れも洗い流されると告げます。その理屈でいけば、地上へ落とすことは確かに罰でしょう。
罰である以上、受ける側が嫌がるはずです。ところが映画の姫は、地上の暮らしを嫌がっていません。竹林を駆け、瓜をかじり、捨丸たちと山を走り回ります。都に移されてからは苦しみますが、それは地上そのものではなく、姫として扱われる暮らしへの苦しみです。
終盤、姫は思わず月に助けを求めてしまいます。願いは届き、迎えが来る。そこから先の姫は、帰りたくないと泣き続けます。
罰として落とされたはずの場所を、離れたくないと泣く。その姿を見るかぎり、地上へ落とすことが罰だったとは読みにくくなります。
原作『竹取物語』では罪をどう書いているか
原作も、罪の中身を書いていません。
かぐや姫を迎えに来た天人は、翁に向かってこう告げます。かぐや姫は罪をお作りになったので、しばらく翁のような身分の低い者のところにいらっしゃったのだ、と。そして「罪の限り果てぬれば、かく迎ふるを」と続けます。罪を償う期間が終わったから迎えに来た、という意味です。
罪があったこと、期間が終わったこと。その2つだけが語られ、何をしたのかは最後まで書かれません。
天上の者が地上に落とされて、期間が終われば戻る。原作はその話の型に沿って書いていて、罪の中身に立ち入りません。
1000年以上前の物語が空白にしたところを、映画も空白のままにした。企画書だけが、そこを一度埋めようとしていたわけです。
では映画は何を描いたのか
地上で生きることそのものです。
物語の中心にあるのは、姫が何をしたかではなく、姫が何を失ったか。走り回っていた子どもが、眉を抜かれ、歯を黒く染められ、座って客を待つ身になります。
求婚してきた5人の貴公子は、姫を見ずに、噂の姫を欲しがるだけでした。姫は宝物を持ってくるよう言いつけて追い返しますが、そのやり取りで一人の男が命を落とします。帝に抱きすくめられる場面までが、地上の暮らしが姫を追い詰めていく道筋です。罪の償いではなく、生きることの手触りとして描かれています。
ラストで月の使者が羽衣をかけると、姫の顔から表情が抜け落ちます。それでも列が空へ上がっていく途中、姫は地球を振り返り、目に涙を浮かべます。記憶を消されたはずの体に、何かが残っている。地上で得たものが何だったのかは、その一瞬でようやく分かる作りです。
高畑監督が主題を替えたのは、前の罪を裁く話より、この変化を描くほうが強いと考えたからだと思います。だとすれば、コピーが「間違っている」というのは言葉の綾ではなく、作品の中身についての訂正です。
同じ監督の呼び名の由来については、高畑勲はなぜパクさんと呼ばれる?名付け親と宮崎駿が語った由来で扱っています。
まとめ
- 「姫の犯した罪と罰。」を作ったのは鈴木敏夫プロデューサー。高畑勲監督は「あのコピーは間違っています」と語っていた
- 企画書にあった罪は「月に帰った女の地上の記憶を呼び覚まし、苦しめたこと」、罰は「地上へ降ろされること」
- 監督は制作の途中でこの主題をやめたため、罪も罰も本編には描かれていない
- 映画の姫は地上を嫌がっておらず、月へ帰りたくないと泣く。罰という図式は作品と合わない
- 原作『竹取物語』も、天人が「罪の限り果てぬれば」と言うだけで、罪の中身は書いていない
答えの出ない問いを抱えたまま、もう一度観たくなる作品です。劇場で観られるジブリ作品の予定はジブリは今映画館でやってる?次の上映は10月23日からにまとめています。
参考
- 高畑勲監督が『かぐや姫の物語』のキャッチコピーを「間違い」だと言った理由(All About ニュース、2026年1月9日) — https://news.allabout.co.jp/articles/o/108375/
- かぐや姫の物語 作品紹介(スタジオジブリ) — https://www.ghibli.jp/works/kaguyahime/
- 竹取物語「かぐや姫の昇天・天の羽衣」原文と現代語訳(四季の美) — https://shikinobi.com/taketori


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